古民家を借りたら仏壇がついていた。

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仏壇付の家を借りて住む

 

我が家には仏壇がある。しかも、我が家のものではない仏壇。我が家は東京の端っこで、100年以上経つ、熊鹿でるような山の中の古民家をお借りしてもう8年いるのだが、公に貸すつもりのなかった大家さんを、不動産屋さん(の個人的な友人のために)が大家さんをくどいて貸してもらえる事になった経緯らしく、その賃貸条件がなんと<仏壇付>だったのだ。人によっては抵抗があるのだろうが、私は実家に仏壇がなかったせいか捉え方が自由であまり気にならなかった(神棚もあるよ)。この家は、大家さんのお母さんの方のご実家なのだが、そのお母さんが昨年急に亡くなられた。

それまでも時折思い立っては、風を入れるために仏壇を開けて掃除をしてお水やお菓子を供えてご先祖様に手を合わせてお礼を言ってきたが、大家さんから頼まれた訳でなく、やりたくてやっていただけだ。お盆の時には、お母さんが生菓子とお花を供えにきたが、私の<仏壇付>の仏壇との付き合いは、その程度であった。

でも、このお家で生まれたそのお母さんが亡くなったのだ。私の中では、全くもって当たり前に、その日から仏壇を開けたままにして、お花をいけて、お水をかえ、お菓子や果物の交換して、お線香をあげて、手を合わせるという日々がふいとスタートした。たまに出来ない日以外は。

そして、これは内緒?(笑)でもないが、この仏壇にはお母さんのご親族以外に仲間が増えている。いや、勝手に増やしたのだ。不謹慎だと驚かれる方もあるだろうが、仏壇の前にちょっと置かせていただいているのだが、ここ数年で亡くなった知人の分骨された小さなお骨が2人分。・・・大丈夫、この家も、このご先祖様たちも亡くなってまでそんなケチくさく事は言わないし、楽しくやってくれていると疑っていない。自由な私のことを笑ってると思う。

 

 

 思い出は、今の私と共にある。

お年寄りが手を合わせる時間が長くなるのは当たり前なことだ。大事な家族や友だちに先立たれたら、心の中で言葉を投げかけていると、どんどん長くなるんだろうと思う。

 

実は今日、仕事でお世話になっていた方が、先日お若くして病気で亡くなられたのを知った。それでこれを書きたくなった。

その方に元気を出していただきたくて贈るつもりのプレゼントを仕事仲間と送る準備しているタイミングで、とても悲しい気持ちで今もいる。贈るプレゼントのひとつが、ラクダの人形だった。

 

「ゆっくり休んでくださいね〜。またお会いできるのを楽しみにしてま〜す!」そんな気持ちがこもっていた。

 

そして、また仏壇前の仲間が増えてしまった。ラクダ。。

 

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〜マミさん、天国はどうですか?本当に寂しいですよ。。。きれいなお花畑があるのかなぁ〜?ゆったりお過ごしくださいね。天国から彼を見守ってくださいね。私たちもがんばります。

 

(本当はまだそんな風にさっぱり思えてなく、哀しみを味わっている所なのですが)

 

 

私たちは自分の思い出のフィルターを通してしか、出来事を見られない。

 

 一つのもの、一つの景色。なんとなく見ているそれぞれは、情報としては同じものであったとしても、自分への取り込み方は人の数分あるはずだ。私たちは自分の思い出のフィルターを通してしか、出来事を見られない。それに励まされ、愛おしくもなる。逆に、ぼ〜〜っと感じた後に流れに任せていると、関係ないところで変な思い込みや癖が発動し、一人勝手なストーリーが頭で展開されて「あいつは、また!」などと怒ったり勘違いしてしまったりするものだ。

 

・・・私の中の、人が亡くなった思い出が、悲しいけれど、優しいものであることに、感謝している。

 

亡くなったお一人お一人のお人柄のお陰。

みんなありがとうございます。

 

そうして今日も朝仏壇の前で手を合わせて、一日が始まるのだった。